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明智光秀と羽柴秀吉の激突、いわゆる”天王山の戦い”は、秀吉が天下を目指すきっかけとなった出来事だ。


羽柴秀吉は備中高松城の攻城戦の最中、本能寺の変での信長の訃報を知る。

急いで京への引き返しを図ろうとするのだが、そこには目的地である天王山までの200キロという距離が秀吉の頭を悩ませる。


秀吉が連れていた軍勢は 織田信孝軍等を含む約4万。

これだけの大部隊をいかにして短期間で目的地の京都まで移動させたのか?

歴史上の不可解な出来事の一つである。


史実では、秀吉が京都に到着するまでに約10日間が掛かったとされている。

200キロを10日間で移動するには1日辺り20キロ。



しかし、秀吉は戦局を知らないまま、早く着いてしまうのはまずいと考える。

明智軍に加勢する勢力が、いかほどなのかを見極める必要があったのだ。


秀吉は一旦行軍止めて、他の武将に工作目的の手紙を出す。

手紙の内容は「信長と信忠の避難が成功した」という内容。

明智に加勢しそうな勢力を、けん制するためである。


戦局の見通しがついた秀吉は、中国地方を一気に巻き返す大行軍”中国大返し”を実行することになる。

ただ、秀吉はこの時点で戦局を見極めるために数日を要しており、残された日数は4~5日程度だ。

1日40キロ以上も行軍しないといけない。


当時の足軽は、10キロに満たない軽装だったというが、槍や鉄砲、兵糧を抱えて行軍を行う者もいる中、一日40キロも走るのは不可能ではないだろうか?

武将になると、甲冑はゆうに30キロを超える代物だ。



秀吉は一体どうやって中国大返しを実現したのだろう?



この問題をどうにかしたのが、当時の秀吉の懐刀であった黒田官兵衛である。

黒田官兵衛は、岡田准一が演じた「軍師官兵衛」でスポットが当たった歴史の名わき役だ。

秀吉を天下人にまで押し上げた立役者であり、その気になれば黒田官兵衛自身が天下を狙える才覚があったといわれている。


秀吉は、いつか自分の寝首をかかれないかを恐れるようになる。

恐らくそんな気はなかったであろう黒田官兵衛だが、当時は下剋上当たり前の戦国の世であったわけだから、仕方のないことなのかもしれない。


そんな黒田官兵衛は、秀吉の軍をいち早く目的地の京に到着させる策を提案するのだ。

これより秀吉の軍は、目的地に着くまで”手ぶら”になる。


まず、兵隊の装備をはずさせ身軽にし、武器や鎧を船を使って海上輸送をする。

兵糧や水も持たない。

本来なら道中必要になるであろう食料や水は、支配下にある村々で炊き出しをさせて兵隊たちにエネルギーの補充をさせる。


兵を手ぶらにすることで、軍の機動力を一気に上げたのだ。

この機動戦略が功を奏して、羽柴軍4万の軍勢は一番乗りで明智光秀の討伐に成功した。


秀吉は後の賤ヶ岳の戦いにおいても、60キロ近い距離をわずか7時間程度で移動するという機動戦略を実行している。それはこの中国大返しの作戦を応用したものだと考えられる。


秀吉はとにかく仕事が早かった。


我々が生きている現代社会でもスピードは、成功する上でとても大事な要素である。

仕事の効率を上げることで時間ごとの労働単価が下がり、コストカットが実現される。

仕事に無駄が無くなることで、受注量を増やせるようになり、生産性が上がるのだ。


工夫することで何かしら道が開けるということを、戦国武将は数百年後の未来にも伝え続けてくれている。


※諸説あり